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モチベーションの話。

 

地元の大学に入学して一人暮らしを始めた時から去年退職するまでの約9年間、私は実家に帰らなかった。理由は簡単で、親とはどうしてもソリが合わないからだ。

 

父親は良く言えば職人気質の自営業。学は皆無中の皆無。酒が好きでテレビのニュースを見ながら「アイツはバカだ」「アイツはクズだ」とよく人を蔑んでいた。

自分がそうされてきたからか、言うことを聞かせるにはまず暴力、そういう人だった。私は幼稚園くらいの時に真冬の寒空の下、風呂上がりの下着姿で外に締め出されたし、玄関の前で号泣しながら「入れて下さい」「ごめんなさい」とよく土下座していた。

 

小学校の時にはランドセルが気に入らない場所に置いてあったということで中身ごと家の裏の川に流されたし、よく分からない生き物がウジャウジャいる川に必死になって教科書を掻き集めに行った。テストで100点を取れば取る度に嫌味を言われたし、髪の毛を鷲掴みにされて柱に打ち付けられて軽く脳震盪を起こしたこともあった。その時は刃渡り1mはあるであろうノコギリを首に当てられた。あれは何用だったのだろう。

 

中学ではついに戸籍を抜くと言われ、よく分からなかったが「それはちょっとマズイ気がする」と本能的に悟ってまた土下座した。

 

稼ぐ能力も無く、隣の家まで1キロもある田舎で外の世界も知らない私には、父親が絶対的な存在だった。

 

そういう訳で私は親を信頼していなかったし、同じ道を辿りたくなかったし、一度足りとも自分の進路を親に相談した事もなく、就職の時も引っ越しが決まるまで何一つコンタクトを取らなかった。

 

 

ただ一つ後悔しているのは大学受験で進路を決めようとしていたまさにそのタイミングの時。ずっと静岡から出て名古屋、もしくは東京に出ようと考えていたのだが、それを知ってか知らずか「県外に出るなら支援はしない」という宣告を受けた。

 

私は自分一人の稼ぎでやっていく自信が無く、説得の余地も無い親の言うことを聞いてしまった。何の勝算も無く社会に女が一人投げ込まれるのは、18歳の私には恐怖でしかなかったし、それなら地元でそこそこの公立大にでも入った方が明るいのではと思ってしまった。

 

実際学費は奨学金、生活費はアルバイトでギリギリ賄っていたし、今思い出しても月に支援してもらっていた4万円が無ければ多分生きてはいなかった。

 

 

 

何の刺激も無く、ただ「普通になること」を目標にしていた大学4年間は、案の定今になって差になって響いているし、私はその差を必死になって埋めようとしている。去年退職して一度だけ帰省した時に「次は東京に行く」とうっかり言ってしまって猛烈に反対されたこともあったが、もう怖いとは思わなかった。

 

 

「後悔しない選択をすること」、私が迷った時はこれを一番の指針にしている。よく人生を妥協しているような人からは「いつも全力だね!」「アツいね!」なんて言われるが、本当に理解できない。死ぬ時に「あーやりきった」って思いたくないんだろうか。ないんだろうな。

 

どれだけやっても世の中にはもっとやっている人がごまんといるし、身近な人にさえも全然追いつけないし、悔しくて辛い気持ちはいつもあって、それでも死ぬ時に「もう少しやっておけば良かった」って後悔したくないというモチベーションだけでまだ続けていて、気付けば28歳を目前にしている。

 

自分は進んでいるのか、もっと効率の良い方法があるんじゃないか、いつも気になりながらもとりあえず目の前にある「わからないこと」を一つずつ潰すしかなくて、自分が何をしたいのかも分からないまま手を動かしている。

 

 

話を戻すが、親には感謝していることが2つだけある。

1つは親戚のツテからPCを私に買い与えてくれたこと。

もう1つは物の価値を教えてくれたこと。

 

お金が無い中でどうしてもパソコンが欲しいと頼み込んだ中学生の私は、windows98がインストールされたデスクトップのPCを自室に置き、見よう見まねで素材サイトやイラストサイト、ブログサイトなど幾つかのWEBページを作成し、居場所をそこに見つけた。

今では使い物にならないものの、簡単なタグやリンクの概念、アフィリエイトの存在やFTPやサーバといった(非常に上辺の)仕組みはそこで覚えたし、どうすれば訪問者がリンクを踏んでくれるか、どこにボタンを配置すれば押しやすいか、そういったことを考えるのが楽しかった。絵を描くのが好きで、少ないお年玉で型落ちの小さいペンタブを買い、付属のフォトショもろくに使いこなせないくせによく絵を書いていた。お陰様で黒歴史のようなサイトを量産していたが、先日思い出して確認したらサーバごと消え失せていたのでほっとした。

 

家には良く父親の知人である画家や画廊の人が出入りしていた。中には手荷物から2つの湯のみを机に並べ、「この2つ、どっちが高いと思う?」なんて小学生の私に質問をしてくるおじさんもいた。ピンクの小さい花が描かれてるものと、赤い大ぶりな花が描かれている湯のみを何秒か見つめ、高級感を感じた赤い方を選んだら「おお!正解!すごいね!」と言われるのが嬉しくて調子に乗ったりもした。家を出るまでの18年間、いくつもの美術館や画廊に連れて行かれた私は、それなりに「値が付くもの」が分かるようになったと思う。

 

 

暴力主義の父親だったが、美術の話をする時だけは凄く楽しそうだった。楽しそうだったというと死んだみたいだがまだ一応生きているし(多分)、だからこそ私も仕事に固執してしまうのかもしれない。仕事は人を壊しもするし、生かしもすると叩き込まれているから、尚のこと慎重になったりもする。

 

正直自分を毎日のように殴ってた親を大事にしようなんて簡単にシフトできないし、本当は仲良くしていたかっただけなのに、と複雑な気持ちを思い出す時もある。親が本当に死ぬ間際になって「勝ったからな!」って言いたいだけなのかもしれない。その時は多分、私は一切泣けないんだろうなとも思うし、結婚式に呼びたいなんて考えたこともない。

 

 

こう言っても共感は得にくいし、私も別に同情を引きたい訳ではないし特段誰かに話すようなこともない。どういう環境でも「今の技量」が正だし、言い訳にするのも格好悪いだけで豚の餌にもならない。

 

ただ目の前の人に勝てないのが悔しくて、死ぬ時に後悔するのも絶対に嫌だから、私はどれだけ「お前なんて使えない」って言われてその通りでもやめられないし、そういう部分を形成したのは親なんだろうな、と思ってまた複雑な気持ちになる。

 

そしてたまに沈殿していたものを掻き起こされて思い出すこういう気持ちは、もしかしたら自分の財産なのかもしれないと思っている。

 

 

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