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5_記事ログ

前の会社で書いた記事(消されてる)のログを拾ってはストックしていきます

 

 

「スタートアップ」と彼らを取り巻く投資家。村田、有安、中西が語る、その魅力と現状

 

https://www.google.co.jp/amp/news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/12310687/

 

http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12310685/

 

 

メルカリCEO山田氏が語る「US躍進の理由」、サービスで繋がる「適正価格」以外の価値

 

http://news.ameba.jp/20161128-113/

 

http://www.mapion.co.jp/smp/news/itnews/mdndi50978-all/

 

 

サービス×デザインが目を引くファイナリスト企業、「難しいもの」を「分かりやすく」するテクノロジー

 

http://news.livedoor.com/lite/article_detail/12348411/

 

 

 

 

 

モチベーションの話。

 

地元の大学に入学して一人暮らしを始めた時から去年退職するまでの約9年間、私は実家に帰らなかった。理由は簡単で、親とはどうしてもソリが合わないからだ。

 

父親は良く言えば職人気質の自営業。学は皆無中の皆無。酒が好きでテレビのニュースを見ながら「アイツはバカだ」「アイツはクズだ」とよく人を蔑んでいた。

自分がそうされてきたからか、言うことを聞かせるにはまず暴力、そういう人だった。私は幼稚園くらいの時に真冬の寒空の下、風呂上がりの下着姿で外に締め出されたし、玄関の前で号泣しながら「入れて下さい」「ごめんなさい」とよく土下座していた。

 

小学校の時にはランドセルが気に入らない場所に置いてあったということで中身ごと家の裏の川に流されたし、よく分からない生き物がウジャウジャいる川に必死になって教科書を掻き集めに行った。テストで100点を取れば取る度に嫌味を言われたし、髪の毛を鷲掴みにされて柱に打ち付けられて軽く脳震盪を起こしたこともあった。その時は刃渡り1mはあるであろうノコギリを首に当てられた。あれは何用だったのだろう。

 

中学ではついに戸籍を抜くと言われ、よく分からなかったが「それはちょっとマズイ気がする」と本能的に悟ってまた土下座した。

 

稼ぐ能力も無く、隣の家まで1キロもある田舎で外の世界も知らない私には、父親が絶対的な存在だった。

 

そういう訳で私は親を信頼していなかったし、同じ道を辿りたくなかったし、一度足りとも自分の進路を親に相談した事もなく、就職の時も引っ越しが決まるまで何一つコンタクトを取らなかった。

 

 

ただ一つ後悔しているのは大学受験で進路を決めようとしていたまさにそのタイミングの時。ずっと静岡から出て名古屋、もしくは東京に出ようと考えていたのだが、それを知ってか知らずか「県外に出るなら支援はしない」という宣告を受けた。

 

私は自分一人の稼ぎでやっていく自信が無く、説得の余地も無い親の言うことを聞いてしまった。何の勝算も無く社会に女が一人投げ込まれるのは、18歳の私には恐怖でしかなかったし、それなら地元でそこそこの公立大にでも入った方が明るいのではと思ってしまった。

 

実際学費は奨学金、生活費はアルバイトでギリギリ賄っていたし、今思い出しても月に支援してもらっていた4万円が無ければ多分生きてはいなかった。

 

 

 

何の刺激も無く、ただ「普通になること」を目標にしていた大学4年間は、案の定今になって差になって響いているし、私はその差を必死になって埋めようとしている。去年退職して一度だけ帰省した時に「次は東京に行く」とうっかり言ってしまって猛烈に反対されたこともあったが、もう怖いとは思わなかった。

 

 

「後悔しない選択をすること」、私が迷った時はこれを一番の指針にしている。よく人生を妥協しているような人からは「いつも全力だね!」「アツいね!」なんて言われるが、本当に理解できない。死ぬ時に「あーやりきった」って思いたくないんだろうか。ないんだろうな。

 

どれだけやっても世の中にはもっとやっている人がごまんといるし、身近な人にさえも全然追いつけないし、悔しくて辛い気持ちはいつもあって、それでも死ぬ時に「もう少しやっておけば良かった」って後悔したくないというモチベーションだけでまだ続けていて、気付けば28歳を目前にしている。

 

自分は進んでいるのか、もっと効率の良い方法があるんじゃないか、いつも気になりながらもとりあえず目の前にある「わからないこと」を一つずつ潰すしかなくて、自分が何をしたいのかも分からないまま手を動かしている。

 

 

話を戻すが、親には感謝していることが2つだけある。

1つは親戚のツテからPCを私に買い与えてくれたこと。

もう1つは物の価値を教えてくれたこと。

 

お金が無い中でどうしてもパソコンが欲しいと頼み込んだ中学生の私は、windows98がインストールされたデスクトップのPCを自室に置き、見よう見まねで素材サイトやイラストサイト、ブログサイトなど幾つかのWEBページを作成し、居場所をそこに見つけた。

今では使い物にならないものの、簡単なタグやリンクの概念、アフィリエイトの存在やFTPやサーバといった(非常に上辺の)仕組みはそこで覚えたし、どうすれば訪問者がリンクを踏んでくれるか、どこにボタンを配置すれば押しやすいか、そういったことを考えるのが楽しかった。絵を描くのが好きで、少ないお年玉で型落ちの小さいペンタブを買い、付属のフォトショもろくに使いこなせないくせによく絵を書いていた。お陰様で黒歴史のようなサイトを量産していたが、先日思い出して確認したらサーバごと消え失せていたのでほっとした。

 

家には良く父親の知人である画家や画廊の人が出入りしていた。中には手荷物から2つの湯のみを机に並べ、「この2つ、どっちが高いと思う?」なんて小学生の私に質問をしてくるおじさんもいた。ピンクの小さい花が描かれてるものと、赤い大ぶりな花が描かれている湯のみを何秒か見つめ、高級感を感じた赤い方を選んだら「おお!正解!すごいね!」と言われるのが嬉しくて調子に乗ったりもした。家を出るまでの18年間、いくつもの美術館や画廊に連れて行かれた私は、それなりに「値が付くもの」が分かるようになったと思う。

 

 

暴力主義の父親だったが、美術の話をする時だけは凄く楽しそうだった。楽しそうだったというと死んだみたいだがまだ一応生きているし(多分)、だからこそ私も仕事に固執してしまうのかもしれない。仕事は人を壊しもするし、生かしもすると叩き込まれているから、尚のこと慎重になったりもする。

 

正直自分を毎日のように殴ってた親を大事にしようなんて簡単にシフトできないし、本当は仲良くしていたかっただけなのに、と複雑な気持ちを思い出す時もある。親が本当に死ぬ間際になって「勝ったからな!」って言いたいだけなのかもしれない。その時は多分、私は一切泣けないんだろうなとも思うし、結婚式に呼びたいなんて考えたこともない。

 

 

こう言っても共感は得にくいし、私も別に同情を引きたい訳ではないし特段誰かに話すようなこともない。どういう環境でも「今の技量」が正だし、言い訳にするのも格好悪いだけで豚の餌にもならない。

 

ただ目の前の人に勝てないのが悔しくて、死ぬ時に後悔するのも絶対に嫌だから、私はどれだけ「お前なんて使えない」って言われてその通りでもやめられないし、そういう部分を形成したのは親なんだろうな、と思ってまた複雑な気持ちになる。

 

そしてたまに沈殿していたものを掻き起こされて思い出すこういう気持ちは、もしかしたら自分の財産なのかもしれないと思っている。

 

 

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2ヶ月が経ちました。

 

東京へ引っ越して2ヶ月が過ぎました。

まだ荷ほどきも終わっていないし、部屋も人が呼べる状態ではありません。

炊飯器は引っ越し直前に壊れたままで、未だにルクルーゼで炊いています。

 

新卒で入社した地元のIT企業を諸事情で退職してから約10ヶ月、私は転職先を探しながら地元のケーキ屋で販売社員をしていました。たったの10ヶ月、でもそれは自分にとってとてつもなく長い時間で、毎日毎日「絶対ここから抜け出してやる」と一人意気込みながら過ぎていく1ヶ月はとても心許なく、何度も心が折れそうになりました。

 

給料は手取りで16万。朝7時や9時に出勤して更衣室を出るのが深夜の0時1時。

幸か不幸か毎日が初売りのような、繁忙期のディズニーのような活気のある店舗での勤務は体力の無い私にとってすごく過酷で、それでも少し気を抜けばクレームに繋がる上に、商品はナマモノ。どれだけ気を擦り減らしても足りないような日々でした。

 

もちろん土日休みも祝日休みもなく、2連休もまず無し。月に10日休めるなんて奇跡はありませんでした。

 

 

 

当たり前なんですけど、1ヶ月経つと少し季節が変わるんです。

その季節の微妙な変化を感じる度にまた心が折れそうになって、何度も辞めてやろうと思いました。それでも続けた理由は幾つかありますが、まずは実家に戻れないこと、そして静岡の山奥地にある実家に戻ると都内への転職がより難しくなるのではと考えたことが主な理由です。親に頼れない状態で仕事を辞めることは、自分の目標、理想、人生そのものから遠ざかる事に直結していました。

 

試用期間の4ヶ月が過ぎ、社員の仕事を覚えながら繁忙期のクリスマスを終えた頃、ようやく転職活動を再開できる兆しが見え、今の会社に採用していただきました。

 

陶芸家の娘として生まれた私は小さな頃からデザイナーに憧れ、それでも自費では県外の大学はもとより、地元の公立芸大の文系学科(安い)に通うのが精一杯で、ついにその技術も知識も得られないまま就職し、営業だと思っていた配属はいつの間にかエンジニアという名前に変わっていました。

 

幾つかのシステムを担当したものの、そのスキルは決して他社で通用するものではなかったと思います。それでもモノをつくる仕事に携わっているのが誇らしくて、私は当時の仕事が好きでした。

 

今の会社を受けた時、ポートフォリオの代わりに当時自分で書いたVBAソースコードを出力して持って行き、自分の展望についてプレゼンをしました。ケーキ屋の仕事をしながら転職活動をしていた時期は、冗談ではなく「死ぬのが先か、転職が決まるのが先か」という状態で、面接会場の会議室から見える景色を目に焼き付けながら「絶対にここで働いてやる」と思ったことを覚えています。

 

あれから4ヶ月が経ちました。

人に会ったりライブに来たり、毎月のように通い詰めた場所に住んでいて、今ではまた違う目標を持って勉強をしています。たった1ヶ月で季節は変わるし、1ヶ月前とは状況も持っている知識も変わっているのが楽しくて、引っ越してから今日までの2ヶ月は時間とお金の許す限り色々な事に手を出しました。そこで触れたもの、見たもの、知ったもの、出会った人の多くが最高で、その度に感動して泣きそうにもなっています。

 

まだ2ヶ月。散々怖い目にも不安な目にも遭っているので、もう「あとはやるだけ」という気持ちしかありません(契約を切られないかだけは本当に不安です)。

どうせ色々な事に太刀打ちできないのも分かっているので、ガンガンぶつかってザクザク学んでいけるといいなと思います。

 

 

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